私はどちらかというと、どうでも良いことをよく覚えているほうだ。特に子どもの頃の話については、映像のまま細かく覚えている。
大阪市内の被差別部落に生まれ育ったフィリピンと日本のハーフである私は、小さい頃から自分を表す「言葉」と「場所」を探し求めてきた。「在日」という言葉に初めて出会ったときも、しばらくは自分を「在日ハーフ」と呼んでいたし、タガログ語は話せないがフィリピンの国歌を必死に覚えて母の前で歌ったりしていた。私の自分探しの旅はかなり手探りだったと思う。
小学校高学年になると、民族学級がある曜日は親友と一緒に帰れなくなった。親友は民族学級でルーツのある国について学び、ときどき全校集会でも発表をしていた。
その姿に拍手を送りながら、どこかで羨ましいと思っていた。普段はいつも一緒にいるのに、このときだけは「(マイノリティの)私はどこにも存在しない」と見せつけられているようで、フィリピンの国歌しか歌えない自分が惨めになった。
だけれど、家に帰って玄関のドアを開けると、ふわっとミートソーススパゲッティの香りがする日があった。母の陽気な「おかえり~」という声と、BGMとはいえない大音量の洋楽は必ずセットだった。
フィリピン特有の甘い味付けのスパゲッティは、学校の給食で食べるミートソーススパゲッティとはまったく違う。そしてこの味をこの家で食べられるのは私だけである。そういう日は心のなかで「勝った」と思いながら、必ずおかわりをした。
そういう日々の記憶を、誰も知らないからこそ、ずっと憶えていようとする自分がいた。
そのせいでどうでも良い記憶さえも一緒に憶えてしまっているが、あのとき忘れなかった欠片たちは私の今の原動力でもある。
私たちは、自分をつくる欠片たちを、日々の暮らしのなかで既に手にしている。その欠片を無理やり持たされたり、勝手に捨てられたりすることにうんざりしたとき、自分から手放してしまうときがある。その場でいくつか手放して絞ったひとつの顔に、私はいつもしがみついていないといけなかった。
今の職場にかかわり始め、外国にルーツを持つ子どもたちと一緒にダンスをしたり子どもの居場所づくりにかかわるなかで、どんな状況でも「自分がマイノリティである」と主張できる強さを身に付けるよりも、「自分の欠片たちを忘れずに保存できる」スペースを作ることが大事だと思うようになった。強さは、ときに私を孤独にしたからだ。そして、その孤独を救ってくれたのは、欠片たちを置いておけるスペースだった。それは人との出会いでもあり、場所でもあり、インターネット上でもあった。
子どもと接していると、それまで饒舌に話していたのに突然「知らん」「わからん」という返答がやってくるときがある。自分の顔が「みんなと違っていないか」不安になる瞬間だ。「ちがい」が「まちがい」とされる経験を受けてきたからこそのファイティングポーズでもある。
そんなとき、私はいつも心のなかで「きっとここにも置けるよ」と何度も言ってしまう。そして「えー、ほんとうにー?」ととぼけて聞き返しながら、子どもが自分の手のなかの欠片を見せてくれる瞬間を待ち続けている。
※月刊誌『部落解放』(2017年10月号)のコラム・水平線より転載