アイデンティティの形成にとって、言葉はもちろん大事である。

これまで独学でタガログ語の勉強を「始めること」ばかりを繰り返しては、何度も挫折してきた。その度に張り切って買い揃えた単語帳や教科書は、一度も最後まで読まれることなく我が家のインテリアになってしまった。

日本で生まれ育った私に対して、「日本人より頑張らなあかん、負けたらあかん」と言う母を不思議に思いながらも、誰に対しても人一倍礼儀正しく、必死に日本語を学ぶ母の姿を今も鮮明に覚えている。

母は日本で私を産み、そして私を「日本人」として育てようとしていた。

日本語しか話せず、フィリピンに暮らしたことのない私だが、そんな私が「自分はナニ人なんだろう」と考える瞬間は、きっと母が考えるよりも多かったはずだ。

 

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大人になるまで、耳の感覚と勘だけで片言のタガログ語を使ってきた私が自力で学んで覚えた初めてのタガログ語は、フィリピンの国歌だった。

フィリピン国歌は、当時子ども心に一生懸命考えた末の、「みんなのうた」だった。
母に何度も歌ってもらい、自分でカタカナに直しては、練習していると気付かれたくなくて、出来る限りの小さい声で何度も口ずさんだ。

初めてひとりで歌えるようになった日、母は始めはいつものように一緒に歌いながら、途中で驚いて歌うのをやめた。

そして最後までひとり歌いきった私を「…すごい、フィリピン人みたいや」と涙声で褒めてくれた。

 

「〇〇みたい」という言葉は、褒めるにしろ貶めるにしろ「それでもあなたは〇〇ではない」という意味を持つ。その残酷さをあらゆる場面で感じてきたはずなのに、母に「フィリピン人みたい」と褒められたとき、不思議と誇らしい気持ちになった。

これまで感じたことのない高揚感と、もっとわかるようになりたい、という気持ちから、自力で学ぶためのテキストを求めていくつかの書店を回った。当時大きな書店では、タガログ語はだいたい「アジア諸外国語」のコーナーに置かれていた。棚に近づいて「フィリピン」の本を手に取ると、慣れ親しんだフィリピン料理のイラストと簡単な説明が書かれていた。

ペラペラとページをめくると、突然ハートのイラストが目に入った。なんだこれ、と思い表紙に戻ると、そこには「日本人男性がフィリピン人女性を口説くためのテクニック」をうたった内容がイラスト付きで書かれていた。

 

私の両親も、こんな風に知り合い、言葉を交わし、結ばれたのだろうか、と想像した。

私が知りたかった、見たかった、触れたかった言葉は、そこにはなかった。

そこから10年以上、私がタガログ語を学ぶことはなかった。

 

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フィリピン、イタリア、カナダ、香港、メキシコ、アメリカ……出稼ぎ労働者として1980年代に世界中に散らばった7人の兄弟たちと母は、今も昔も、たびたび国際電話で家族の時間を過ごす。母は実家の家族とはタガログ語ではなくイロコス地方の方言で話すので、何を言っているかはまったくわからない。その時の母はいつもより表情豊かで、とにかく喜怒哀楽が激しい。そんな母親を、少し怖いと思うことさえあった。

国際電話の音声案内がスピーカーから流れたあと、ガサガサとノイズに混じって嬉しそうな声が聞こえる。そこから先の「家族」の話を、私はいつも知ることができなかった。

 

知らない場所で暮らしている、私の家族がいる。

それだけは小さい頃から知っていた。

 

私の出番は、電話での会話が始まってすぐにやってくる。

「Kumusta ka na?(元気?)」

「Mabuti naman(元気だよ)」

の生存確認と、電話を切る直前の

「Good night!(おやすみ)」

「Ingat kayo palagi!(いつも気を付けてね)」

たった一言二言の会話だが、母親は絶対このやり取りを欠かさなかった。

私が家のどこにいても、友達が泊まりに来ていても、必ず私にタガログ語を話させた。

母は電話口でたくさん笑い、時に怒り、電話を切る前には必ず涙声になっていた。そして母が家族と電話するとき、私は少しだけ「日本人」から「フィリピン人」になれる。私の生活は、そんな「日本人、時々フィリピン人」の毎日だった。

ふたつの間で移ろうアイデンティティは、どちらからも押し出される経験を持つ。声色以外に知ることのできなかった家族に初めて会うまでの私は、どちらからも押し出されてしまうこと、そしてそのままぐしゃりと音を立てて消えてしまうことに怯えていた。

誰かに見つけられるまで、その場でひっそりと、じっとしていれば、かろうじてこのままで生きられると思っていた。

 

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世界中に散らばった家族が集まるReunionで、私は母に顔がそっくりな叔父や叔母、祖父母に出会い、移住先の国で生まれ育ったいとこに出会い、母が生まれ育った田舎の景色に出会った。そこでの時間は「日本人、時々フィリピン人」ではなかった。

「生まれも育ちも日本で、名前も三木幸美。しかも言葉がわからなければ、私なんてとてもフィリピン人とは言えないだろう。」と思ってきた私は、いとこ達とテレビのアニメを見ながらたくさん笑った。おじいちゃんに火起こしを教えてもらった。おばさんにイタリアでいつも食べているパスタのレシピを教えてもらった。祖母が作る、母親の味付けと同じアドボやパンシットを、満腹になるまで食べた。

言葉がわからないままに、家族とたくさんの時間を過ごした。

 

はじめての家族の時間で舞い上がった私は、ローマ字で自分の名前が書いてある宿題や習い事の表彰状を引っ張り出して、一生懸命家族に見せたりもした。

それらをみて祖父が一言、「Panggayanの名前どこいったん?いらんくなったんか?」と私に聞いたことがある。

「ほぼ日本人としてここに来た」と思っていた私は、明らかにうろたえながら「なんでかな、なんでないんやろうな」と答えた。それは喉の奥から絞り出した、苦し紛れの本心だった。

 

数年に一度はフィリピンに帰るようになったものの、「この子は日本人だよ、言葉もわかんないから」と私を置いて遊びに行く従姉妹もいた。

それでも、毎回空港に迎えに来てくれるおじさんは母にそっくりで、食卓に出るご飯はいつも日本で食べている料理ばかりだった。

日本にいると、「なんでフィリピンのことあんまり知らないの?」「日本語しか話せないなら、それってもう日本人だよね」「わざわざ言わなくてもいいのに」と言われた。

それでも母が流す音楽は、フィリピンの家で何度も流れていた懐かしい洋楽だった。

 

フィリピンから日本に帰る直前、祖母が作るアドボを食べながら、「結局わたしってどっちの人なんだっけ…。でもここにいると、ここにいてもいいと思える。辛くなったらまた帰って来て、ここでアドボを食べたいな。」とぼんやり考えていた。

その頃には「Nabsog akon!(田舎の方言で「お腹いっぱい!」)」と笑いながら祖母に話すようになっていた。

言葉に、名前に、それらがもたらす社会のまなざしに、しがみついていたのは私の方だったのかもしれない。

この日から、私が日本人とフィリピン人を行き来することはめったになくなった。

 

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言葉を学ぼうと決意しては、続かなくなって挫折を繰り返したあのとき。

それは自分のためではなく、誰かに指を差されないために、言葉を身に付けることで「完璧なハーフ」になりたいから、という、風船のように膨らんでは破裂するような理由だったからなのかもしれない。

『アイデンティティの形成にとって、言葉はもちろん大事である。』

この気持ちはずっと変わっていない。だが、私を形つくるのは言葉だけじゃない、とも考えられるようになった。

 

そう思えるようになってから、私はまたタガログ語の勉強を始めた。今は「ふたつの国を背負った完璧なハーフ」を目指すこともないし、ゆるやかに、とてもゆるやかに、言葉を学ぶことで自分の人生を捏ね続けている。

クッキーの型抜きのように語られてきた「ハーフ」は、私の人生にピッタリとはあてはまらないだろう。それでも私は、抜き型の外側にある生地だって変わらず美味しいことを、ずっと前から知っている。