私の名前は、名前からだけでは外国にルーツがあると一目でわかりにくい。
人前で話をすると、ごくたまに「ハーフなのに日本の名前ですね」「名前にフィリピン名を入れた方がどちらも大切にできると思う」と言われることがある。 逆に母の姓のPanggayan(パンガヤン)を名乗ると「こんな名前なのにすごく日本人ぽいですね!」「どうしてわざわざ入れるんですか?」と言われたりもする。私の正しい名前は何なんだろう、私は自分を何と名乗るべきなんだろうかとずっと考えていた。
昔は、周りから「ハーフ」に反応して期待する顔を向けられると名前を盾にした。相手の二言目が出る前に「私、もう名前も三木幸美なんですよ。すごく日本人でしょ?」と少し早口で答えた。不思議なのは、「私、日本人だから」と言う度に思い出すのは日本人でない母の顔だったことだ。私は頭の中で母とサヨナラして、次の話題に移った。
私が日本人である、というのは嘘ではない。日本国籍を持ち、生まれも育ちも日本だ。ただ、私には戸籍・国籍がなかった期間がある。正確にいうと8歳で日本人になったのだ。そこには私を「日本人」にしたがった母の強い気持ちがあった。
当時父と婚姻関係になくオーバーステイだった母は、強制送還を恐れて私の出生届を提出できないまま私を育てていた。私が高熱を出しても病院に連れて行くことができなかったし、地域の保育園に通わせることもできなかった。寝ている私の髪を撫でながら、母は「ごめんね、ごめんね」と声をかけてくれた。
それも「すべては私が外国人だからこうなった」と、母は自分を責めていた。戸籍取得の際に私の名前を「三木幸美」にしたのも、日本で生きていく時に日本人であれば苦労しないだろうという母の思いからだった。
外側が「日本人」になっても私の生活そのものが日本人になった訳ではない。母の作るフィリピン料理を食べ、夜には一緒に識字教室に通い、役所の手続きを代筆するのは私だった。しかし、いつまでも自分に向けられる「ハーフ」に応えられない私は、このまま日本人になっていくのかもしれない。漠然とした不安がありながらも、日本人としてもハーフとしても「ニセモノ」と言われることが怖くて、私は自分を表す言葉を失いつつあった。
そんな時、学校の三者面談の用紙を母に書いてもらって提出した事がある。提出してすぐに呼び戻され、先生に「三木さん、保護者記入欄に自分で名前書いちゃダメでしょ」と怒られた。私はとっさに「ちがう、ちゃんと自分の親に書いてもらったもん。私ハーフやもん。」と小さく、だけど強く答えていた。たった二言の反論だけれど、身体が一瞬で熱くなった。
それまで傷付けられないための最善策だと思って「日本人」と「名前」を使ってきた自分が、アイデンティティと家族を守るために使ったのは「ハーフ」という言葉だった。私は言葉を発しながら、ずっと母の姿を思い浮かべていた。頭の中でサヨナラではなく、手を繋いでぐっと力を込めた。
それから何年も経つが、誰かに名指される言葉だった「ハーフ」を、自分自身を表す言葉の「ハーフ」として、私はこの言葉に意味を塗り足しながら、今も使い続けている。「日本人」になって私自身を切り離し、そして母を切り離すくらいなら、私はいつまでもニセモノで良いと思っている。
ホンモノは、昔から変わらずずっと「ここにいる」からだ。
※Migrants Network 2017. 12月号より転載